昭和54年01月06日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 教祖様の御教えのお言葉の中には非常に矛盾が多い。これなんかもう本当に、普通で聞いたら、矛盾だらけの感じがしますね。信心はみやすいと始めは言っとられます。それを氏子からむつかしゅうする。一番最後でも、信心はみやすいからみやすう信心をするが良いぞと言うておられる。かと言うと中には、どういうふうに言っとられるかというと、三年五年の信心では迷いやすいと、十年と信心が続いたら、われながらわが心をまつれというふうに仰っておられる。もう大変な矛盾でしょう。
 けれどもそれを真意を段々分らせて頂くと、こんなに素晴らしい表現はとても普通の者じゃ出来ないという感じが致します。みやすいというのはこれなんだよと。みやすいというのはわれながら、わが心がまつれるようになったら、もう信心はみやすい。まあ合楽でいわれる楽しゅうて有難うして愉快になってくる。こんなにみやすいものなんだと。だからその十年の間とてもです、どういう難儀をふんまえておりながらでもです。
 それをやはり、一つ一つおかげを受けていけば立ち行こうが、その日その日が立ち行こうが、その日その日、困った事は難儀な事は、一つ一つお取次を頂いておかげを頂きながら信心辛抱させて頂けよ。そして十年と信心が続いたら、われながらわが心をまつれるようになれよと教えておられる。だからわが心が拝めるような信心になった時には信心はみやすいもんだという事になるのですから。
 この辺のところを取り違えんようにしなければいつまでたっても、わが心をまつれたり、いわば信心がみやすうして楽しゅうして、それこそ学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞというような、楽しい有難いものになってこない。何の稽古でもそうですから、そこまでいかねばやっぱり駄目です。だから、二十年たとうが、三十年たとうがです、わが心が拝めれるというような稽古そこに焦点をおいての信心でなからなければ、一生信心してもおだちはあがらんです。
 やっぱり信心ちゃ難しかのうやという事になってくる。お金もいるし暇もいるしという事になってくる。ね、もう暇んだんじゃないお金だんじゃない、とにかく生活に信心がついてきておった中から、いうならば信心に生活が付いて来る様になるのです。だからどんな場合であってもです、今日もあるひと連れの方達が自動車の運転をしてくる方が、今日は娘の家が家移りがある、手伝いに来てくれちいう。それで夫婦で行った。だからそれに便乗させて頂いて、朝参りをしようと思ったのも出来なくなったという事になる。
 これはいうならば、信心とういうものが先行してなかったからです。例えばそれが娘の方からであろうがです。そりゃでけんばいと、前ん晩からだから朝の御祈念が終わってから、さして遠いところでもないから、そして行こうと、これはね、信心の中に生活が入ってくるともう全然問題じゃないです。だからそうならなければ難しいです。〈そりゃ〉信心ちゃ難しいですよと。
 例えば行こうと思うたっちゃ行かれんと言う様な事になってくるのです。だからお互いの信心をもういっちょ、十年もしたら自分の心が拝めれる事の為に、信心の中に自分の生活が入って来る様なひとつ、おかげを頂かにゃいわゆるみやすいものにはなりません。昨日壮年会でしたが、最後に正義先生が発表してましたが、昨日は正義先生には似合わん事だったけれども、社員の方々と旅行をそれこそ朝お届けせんままに行っておった。そしたら先生もう、旅館に着いたらもう部屋に掲げてある軸が虎じゃったげな。
 もうずうっと虎からにらまれとるごとして気色の悪かったとういうような〈話〉をしてます。もうこの人こそいうならば、生活の中に神様がついて来よござるのでなくて、信心の中に生活が久富建設のあるのだと、だろうと思うのですけれども、まだすっきりしてない事がわかりますね。私は今朝、今日の修行の事をお願いさせてもらいよりましたら、今頃にあんな御心眼を頂くという事ですけれども『ひまわり』を頂きました。これはもう夏の花ですね。
 とにかくあのひまわりというのは暑い方へ、暑い方へと首を向けて行くという習性の花なんです。私は信心のね、信心の修行というのは、難儀の中から早く離れたい、離れたいというね、只、その難儀から助けて貰いたいという事だけの信心からは、今日のいうならわが心が生まれるような、信心が楽しゅうなって、楽になるという事は絶対ないですね。その時、その時にお願いしてお願いします、お願いしますで、おかげは受けるにしても、これは一生たってもお願い信心で終わってしまう。
 お願い信心というて悪いのじゃないですけれども、只なら御利益主義の信心に終わってしまうのです。そりゃ願わにゃおられませんから願いますけどね、信心というのはね、いわゆるひまわりのように熱い方へ向きを変えて行こうとういうのです 例えばその難儀があっても、その難儀の方から逃れようじゃなくて、その難儀の中に入って行こう、難儀の方へ本気で向きを変えて、難儀の中に御神意を悟らせて貰おう、分らせて貰おう。ああ神様のこういう深い御神意。
 御神慮があったのかと分る時にもうその難儀は難儀じゃないです。有難いです。信心とは楽になりたいという事の為ではなくて、もう本当にいうならば、極楽ですからね。真の楽をいうならば和楽を目指してのものじゃなければいかんです。和楽というのはいつも自分の心が和らいで、本当に信心ちゃ有難いなあとこういう事なんです。昨日正義先生が発表しとりましたが、本当に年末に明日の元旦祭のお届け、又今晩の除夜祭のお初穂お礼を一年中のお礼をまとめて、お初穂を書かせて頂きました。
 そして一年間の事をじっと振り返ってみて、神様とてもとても本当にあれを思い、これを思いおかげの中にあって、こんな事で足ろうとは思いません。いうならば私は夜の御祈念にね、三代金光様の有難とうして有難とうしてという境地を開かれた、そしておかげを頂いて、有難い有難いその、有難いおかげを受けておる事のお礼の足りないお詫びばかりを致しておりますという。まさに正義先生の〈昨日〉の発表はそれだったと思うのですね。一年中の御礼のお届けのお礼を包ましてもろうた。
 明日の元旦祭の準備をちゃんとさしてもろうた。そして一年間の事を振り返ってみて、あれもおかげであった、これもおかげであったと思えば思う程、神様とてもとてもこういう事で足ろうとは思いません。とそこに心からお詫びをしておる。そこに今年の信心の発想と申しましょか、正義先生の心の中に今年はいよいよもって、合楽建設に私の信心はかけますという誓いの心が生まれてきましたとこういうのです。だからそういう信心の内容というものがです、段々出来てくる、お繰り合わせを頂かねばならんが。
 昨日ある方が、熱心に信心ができます。もう本当におかげおかげ、有難い有難いばっかりを言っておったが、ここ一両日のお届けの中にどうも、どうも子供達がいわゆる不穏な雰囲気があるわけですね。親をみるとかみらんとかといったような不穏な雰囲気がある。今まで本当に素晴らしい、素晴らしいというておった子供達でも嫁達でも、娘婿達でもどうかおかげを頂いて私の方がおかげ頂いてるといっておった。ところが最近ちょっと風向きが変わって来た。
 そげな事なら早うあんたどんが若いうちに、いっちょもう子供達のお世話になちらんといういっちょ信心にならにゃいかんのうというて、私はお取次させて頂いてから帰った後に〈その事を〉神様にお取次させて頂いておりました。そしたらね、昔あのランプというのを使いましたね、あのランプのホヤを一生懸命拭いておるところを頂きました。だから、ランプをこう取っとるもんですから中の灯がもうゆらゆらともう消えるじゃろうかというごと、ゆらゆらしておる様子を御心眼に頂いたんです。
 ははあ、ゆらゆらする、もう灯が消えるのじゃないだろうか、今まで有難い有難いと言いよったのが途端に有難くなくなってくるような事柄が、次々と起こってくるという事。ね、これは結局いうならば、ランプのホヤを取っておるからゆらゆらするのであって、これを磨いて、神様はもうちょっとホヤの研きがこの頃かかってないという事なんですよね。皆さん今の事を聞いて下さればすぐわかる事なんです。結局信心のない子供達じゃない信心のある親、私共夫婦がです、ね。
 これほどの信心をさせて頂いておるのであるから、今日の御理解でいうならば、もういいかげんわが心がが拝めるような信心にならんかと、これはお母さんお気付頂きよるばいと、自分達のホヤの方ば拭かにゃ、神様拭いてそれをまた、今までにも増した明るさになるとばい、これやあれ達じゃない、子供達じゃない私共夫婦がいっちょ、まず磨かにゃというような頂き方こそ、その難儀に背を向けないで、だからそういう難儀から、もう別れたっちゃよかという気持ちになっていきよるわけ。
 それから離れようとするわけ、いわゆる信心とはその方へ本気で向きを変えてみると、これは私どんが磨くより外はなかったなあという、そういう中に神意、神愛というものをいよいよわからせてもらう事が出来るんです。 自分の都合よかごとなりゃ有難い、都合ようならんともう相手の方が悪かごとあるふうな頂き方が、何十年続いてもわが心がまつれるような事にはなりません、ね、いうなら、この寒中に寒い中に朝早うから、なら寒修行が今日から始まった。
 寒修行に皆さんこうやっていっぱいおかげを頂かれた。というのはまさに眠い事やら、苦しい事やら、冷たい、寒い事やらに向きをむけられたわけなんです。そしてどういう事になるかというと、むしろフアイトが湧くでしょう。はぁこのひと時だけは頑張りぬかにゃ、そして誰にも進めよう、かれにもお話しょうというような心すら起こってくるでしょう。それなんです信心修行というのは。
 だから寒修行というのは修行の尊さ、有難さがわかる事の為に、寒い方へ向きを変える、眠い方へ向きを変えるその中に、はあこの寒修行を貫かせて頂いた時に、貫かせて頂いてよかったというものが生まれてくる。いや日々ですらやっぱり朝参りは良いなあと思うです。そしていうなら、その日その日のおかげがはっきりしてくるです。ね、今日の御理解。その日その日のおかげを受けていけばとこうおっしゃる。
 そういうその日その日のおかげ受けていきながら、わが心が祀れる様なわが心が拝めるような私は信心をさせて頂くという事は、わが心を拝むと言う事はわれながら、わが心を拝まれるという事は、私は難儀そのものを難儀様として拝めれる心の状態をわが心を拝む事だと私は今日は、いうならば悟らせて頂いた。ははぁ自分の本当に私がごと幸せな者はなか、金光様のおかげで本当に自分の心が拝めますというとっても難儀な問題が起こったら、どうした事じゃろうかというならば、それはわが心を拝む時じゃない。
 難儀に向きを〈スッ〉と難儀を感じたならばその難儀な方へ向きを変えて行く。そこに深い御神意、御神慮を悟らせてもろうて、こりゃホヤを磨かなければならん時期がきとるばい、こりゃ本気でまいっちょ、研きなおさにゃいかんばいという生き方にならせて頂く。私は難儀な問題というものを自分の周囲において、それをおかげになりますようにおかげになりますようにではいかんと思う。
 その難儀な問題を感ずる、そして本気で向きを変えるとどういう事になるかというと、はあ、これはまだ自分の信心が足らんのだ、研き方が足らんのだと、改まりが足らんのだという事になるのです。ね、だからいうならば、難儀がそのおかげで信心が出来るのですからその難儀を拝まなければおられない事になるのです。その難儀を拝める心こそわが心がまつれる心だと思う。
 信心とは本当に素晴らしい事になってくるなと。こんな事だったら、以前の私だったら、腹が立ったり、悲しかったり、淋しかったりするだろうけれども、その悲しかったり、腹の立つような事柄がです、お礼が言えれる心の状態。そういう心の状態こそわが心がまつれる、そういう心じゃなければまつれん。ね、そういう信心をです、成程十年続けたら信心はいよいよみやすいものになるだろうと思いますですね。
   どうぞ。